【3/26】Y-GSCシンポジウム「60年代日本社会と文化に見る『主体性』とその可能性―ブント、大島渚、ヤクザ映画」開催のお知らせ
Y-GSCでは特別ゲストをお招きし、シンポジウムを開催いたします。
みなさまのご参加をお待ちしております。
シンポジウム「60年代日本社会と文化に見る『主体性』とその可能性―ブント、大島渚、ヤクザ映画」
日時: 2016年3月26日(土) 13:00〜16:00(休憩あり)
場所: 横浜国立大学 教育人間科学部6号館102教室 キャンパスマップ(建物番号S3-1)
13:00 開会
13:05 趣旨説明、登壇者紹介
〈発表〉 コメンテーター ファビアン・カルパントラ (横浜国立大学講師)
13 : 10~13 : 45 市田良彦 (神戸大学教授)
「政治的主体性をめぐって」
13 : 45~14 : 20 宮田仁 (フリーランス編集者)
「大島渚と声なき主体 〈朝鮮〉表象を中心に」
休憩(10分)
14 : 30~15 : 05 絓秀実 (文芸評論家)
「ヤクザ映画と天皇制」
15:05~15:55 全体のまとめと質疑応答
15:55~16:00 閉会
*どなたでも参加できます。事前申し込み不要。
問い合わせ先:
ファビアン・カルパントラ f-carpentras@ynu.ac.jp
須川亜紀子 akikosugawa@ynu.ac.jp
シンポジウム概要
「68年」から約半世が紀経過した今日、60年代に起きた出来事を様々なパースペクティヴから再検証する動きが日本で見られ始めてきたが、ヨーロッパ、アメリカや中南米などで行われている同じ68年研究の豊かさや視野の広さと深さに比較すると、日本の場合はほとんど進んでおらず、60年代を歴史的対象として捉えることは未だ少ないという印象が拭えない。「団塊世代」「連合赤軍」「60年代文化」などといった概念に対し批判的な距離を取らずに考察を進めてしまうアプローチが多数あった。結果的に多様であった60年代の歴史を「68年」などと言った「記号」に集約してしまい、戦後日本社会を決定づけた転換点でもあったにもかかわらずその歴史性と現在性は十分に論じられてきたとは言い難い。その現状に様々な理由があげられるのだが、一つ言えるのは1972年のあさま山荘事件以後に形成された「社会的枠組み」(social framework)は日本の60年代の記憶に対してヨーロッパやアメリカよりもはるかに厳しく、豊かな、且つ多様な議論を妨げてきたということである。
60年代は、「主体性」をめぐる言説とそれに対する認識が大きく変わった時代でもある。本シンポジウムは、60年代に不可分であった「社会」と「文化」を「主体性」の視点から捉えなおすことにより、「団塊世代」や「60年代文化」に集約されえない60年代の歴史性と現在性を再検証することを目的としている。まず、社会思想史の研究を行っている市田良彦氏が、60年安保から全共闘運動結成までの挫折と分裂を重ねてもなお、政治運動に対応し続けたブントを中心に、「政治的主体性」について考察する。60年代に提起されたはずのこの特殊な主体性は、まだ十分に考察されておらず、文化的実践における主体性を問題にした際に大きな手掛かりになるだろう。次に、編集者の宮田仁氏が60年代の大島渚映画における朝鮮及び女性の表象について論じる。大島は60年安保闘争が依拠した「近代主義者」の「疑似主体意識」を批判し、真の「主体意識」を主張したが、自作で革命の主体を肯定的に描いたことはなく、むしろ60年代的な主体にとっての他者──女性と朝鮮──へ向けて独特のアプローチをみせた。最後に、著書『革命的な、あまりに革命的な』の中で「68年革命」という概念を提示した絓秀実氏が、ヤクザ映画における「天皇制の表象」を論じながら、「68年の主体」を考察する。日本の68年のバックグラウンドを形成したヤクザ映画には、襲名披露などの場面で必ず天皇制が表象されているが、その意味を「68年革命」の問題として捉える。
過ぎ去った2015年は政治運動の盛んな一年であったと同時に、「政治的主体性」の欠けた一年でもあったということは大きな特徴である。その現状は、同年に注目を浴びた日本映画などにも確認することができる。こういった状況を踏まえた上で、60年代日本社会と文化に見る「主体性」の現在的可能性も議論にのせて行きたい。